今日は記念すべき74の日です☆
別に私が7月4日生まれなわけでもなく、 今年に入って74食パスタを食べたわけでもなく、 脳内年齢が74のおばあちゃんだったというわけでもなく。 でも私の中では60過ぎたあたりから、 こんな日も来るのかなってずっと思ってた。 さあ、74とは何の数字でしょう?(^_^) …って勿体ぶる必要も特にないんで、悔しいけど教えちゃおう。 今日で私がこのブログに記事を書くのも74回目、 初代部長・偉大なるあい先輩の記事数に並んだんです、ついに。 右側にブログ部メンバーの名前がずらーって並んでて、 そのなかでずっと動かない74っていう桁違いな数字があった。 すごいなーってずっと思ってた。 私よりずっと短い期間でこれだけの記事を書いたわけだから、 あい先輩のほうが比べ物にならないくらい大変だったと思うけど。 いつかこんなに書いたりするのかなーって漠然と考えてた。 4年になって、これひょっとして抜くんじゃね?と思って、 それからちょっと心の中で意識しちゃったりなんだりした74。 いやぁ、なんか感慨深いのぅ。 でもそんな自己満足な記念日の記事をどうしようかということは、 実はあんまり考えてなかったんだよな。 どうしよう、何書こう。 えーと、今日は学校の図書館にずっといました。 あ、なんかこう書くとちょっと真面目な子みたく聞こえるね♪ でもほんとは、レポートが切羽詰ってきたから。リアルだ(-_-) 中国思想演習、『老子』のレポートを何書こうか全然考えてなくて、 とりあえずむとうと図書館行こうぜってことになったのでした。 まあとりあえず『老子』読むか、と読んでたら58章に 「其の政、悶悶たれば、其の民は淳淳たり。其の政、察察たれば、其の民は缺缺たり。」 (その政治が大まかでぼんやりしていれば、その民は純朴である。 その政治がきめ細かくテキパキしていれば、その民はこせこせしてずる賢い。) ってあって、おいおいとつっこみ。思わずむとうに見せてしばし歓談。 いくら無為の治と言えど、これは現代社会にはちょっと無理でないかいと。 つか、ちょっと老子言い過ぎでないかいと。 行動はテキパキしてるけど純朴な人だっているよ普通に、と反論。 でもでも、良い悪いは全く別として、こういうタイプの全然違う人っているよね、と話は飛躍。 その人の周りを流れる時間と雰囲気が「さすが中国4000年」(←受け売り)な人、確かにいるね、と。 私3コマも授業とってるよ、と。 逆にテキパキしてて感動するくらい行動が早い人もいるよね、と。 うん、メールとか毎回ほんとに感動だよね、と。 いろんな人がいるねぇ、世の中ってのは。 相反しているけど、私は実はどっちも好きで、 なんか矛盾?と思ったけど、 まあ好きか嫌いかなんてフィーリングでしょ(^^) そしてうだうだと図書館に居座って資料集めをし、 むとうと駅前の蕎麦屋でうどん食べて、 奴はトイレットペッパーを買いに薬局へ、 私はかるたの練習へと行ったのでした。 うん、なかなかに充実した1日であった。
2008,07,16, Wed 23:50
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少女
…ではありません。もう少女と呼べる年でもありません、めぐみです。 昨日は、日本女子大学教育文化振興桜楓会 桜楓2号館4階ホールにて、日本女子大学 文学部・文学研究科共催 学術交流研究企画で 『源氏物語』の雅び が行われました。 中古文学が好きな私は勿論聞きに行きましたよ!軽くお手伝いもしました。 会場には人が溢れ、且つ、院生の方々も沢山いらっしゃり…圧倒に圧倒された私はとりあえず二階にて見下ろす形で見ておりましたよ、いやぁ凄かったです 講演者は何と!後藤祥子先生です!日本女子大学の学長先生ですよ 更に更に!!今回、雅楽の演奏がありまして、王朝時代の「遊び」としての管弦合奏をお聞き出来ると! 始まる前から心を弾ませ、ガヤガヤしていた会場は開会の辞を迎えると静まり― ―あぁ、始まる。心のときめきは緊張と好奇心が一つになり、中央にある壇上を見つめました。 後藤祥子先生の講演「一条朝と前代の往還」を配布資料を見ながらお聞きし、必要なところをメモしていた私。 知識不足の私でも十分分かる講演内容にうっとりし、『源氏物語』をもう一度しっかり読みなおそうと決意しましたよ。 それにしても、『源氏物語』は私達に本当に色々なナゾを残したなぁ…とお聞きしながらしみじみ思いました。そして、研究者は凄い。何が凄いって…大きなナゾを一つ、また一つ。化石を発掘するが如く、壊れぬ様、明らかにしていく。格好良いです 後藤先生の講演が終わった後、休憩をはさみますが…もうここから会場は王朝時代に時をかけてしまうのですよ。 演奏者の服装も王朝装束?!と思いますが…そうではなく、雅楽を演奏下さる方が所属するグループの制服に身を包んでおりまして、もう演出が凄い、凄いです さぁ、二大目玉のもう一つ、演奏と解説「六条院の女楽」の始まりです! 最初は楽器の説明から始まりました。 この記事をご覧になっている受験生の方の中に「うへぇ~難しそう!」とお思いになっている方もいらっしゃるでしょう。(えっ?いないって;) それが難しくないのですよ!そして面白い!笑いが生まれたりもしましたよ。 分かり易いですし、知らなかったことが分かるようになるのは実に楽しくて…。 「調子」と「音取」の違いも分かりました。さてご覧になっていらっしゃる受験生の皆様、どう違うか分かりますか?これは次の私のブログまでの課題です。(えっ) さて話は戻りまして…詳細な説明中で勿論、楽器を奏でて下さいました。 繊細な音もあれば、貫く様な高い音もある。宙を舞えば、地を這う様に…「奏でる」という字には「演奏する」の他に「舞をまう」という意味もありますが、正しくそれです。 音が舞っているのです。 最後の演奏は、旋律が空間と時間を巻き込み、人を惹きつけました。 一つ一つの楽器から出る音は一つの”おと”となる― 異なる音の”おと”の集合体は私達の心の中で奏でました。 演奏終了後、演奏に負けじ劣らずな拍手が起こり、会場全体が拍手で包まれました。 そうして会場は、21世紀へと戻って参りました。 良い旅でした。 大学生時代の醍醐味の一つにこういった学会や研究会等に参加することがあると思います。 これが好きな時代や作家、興味のあるものだったら尚更!参加するべきであるでしょう。 高校生も参加できるものもあると思いますが…緊張してなかなか行けないと思います。学部生の私でさえ緊張してしまいますから…。 又、高校生は興味があってもやはり模試や受験勉強の為に時間がとられてしまうと思います。 ですから、大学生になったら是非ともこういったものに積極的にご参加頂ければとつくづく感じますよ。 『源氏物語』がお好きな受験生の皆様。 まだ機会は沢山あるでしょう。 大学生になったらどんどんご参加下さいね!
2008,06,29, Sun 22:34
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日本文学史(上代)の授業が楽しいです。
毎時間、『古事記』を読み進めていきます。 高校生の時は、日本史の授業で『古事記』という名前を覚えただけで、恥ずかしながら内容については全く知りませんでした。 この授業で古事記の内容を少しずつ知っていって、古事記が大好きになりました。 古事記ってとてもファンタジックなんです まず、いろんな神様が出てきます。 イザナミ、イザナギ、水の神、火の神、太陽の神、月の神、食物の神、などなど……。 この人たち、まず性格が様々です。とても神様とは思えないほど短気な神様とかいます。 そんな個性を持った神様たちが、愛し合い、憎しみ合い、生み出したり、殺したり。 それから、いろんな国が出てきます。 神様たちが住んでいる天上の世界、高天原。 死者の霊が行くとされた(地下の?)世界、黄泉国。 高天原と黄泉国の中間にある地上の世界、芦原中国。 などなど……、他にも出てきます。 神様の名前とか、国の名前とかが好きです。 アマテラスとか、ツクヨミとか、なんだか素敵な名前じゃないですか? 葦原中国は、あしはらのなかつくに、と読むんですよね。「なかつくに」って、なんだかカッコイイ感じがしませんか? 古事記の中のお話は、外国の神話(ギリシア神話など)にも繋がる点が多いので、それらのお話が好きな方にもおすすめな授業です。 古事記に出会えて、この授業に出会えてよかったです(*-ω-) そして古事記に親しみやすいようにと、わかりやすくお話をしてくれる先生に、本当に感謝です。
2008,06,25, Wed 00:16
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今日で教育実習を終えて、ちょうど一週間が経ちました。
過ぎてしまうと、生徒と一緒に生活し必死に生活していたのも なんだか随分前のことのように思えてきますが、 まだ一週間しか経っていないんですね。 この教育実習中に実家では、愛犬が病気になってしまい かなり大変だったようです。 私は電話でしか様子を聞いていなかったので、実際にどのような様子か 分かっていなかったのですが、家に帰ってきて愛犬の 様子を見た時はショックで泣きたくなりました。 今はお薬を定期的に与える投薬治療で、少しずつ元気に なってきていますが、まだまだ油断はできません。 愛犬ムックは今年で13歳と結構な年なのですが、 見た目が愛くるしい小さいときのまま変わらないので 飼い主が彼の「老い」を受け止めるのが難しいのです。 ただ、飼い主が悲しんでいると、本人(ムック)も察するので 私たち家族は一緒にいられる時を楽しもうとしています。 実習期間中に生徒にも語ったのですが、 大切なものがなくなるとき、その痛みを受け入れると 言葉では簡単に言えるけれど、実際にはそんな簡単に その事実を受け入れることはできないのです。 苦しんで悩んで、その先に何かがあるかもしれないけれど ただ今はその苦しみを味わいながら、 どうやって今を生きるか考えるしかできないのだと思います。 私の教えた『高瀬舟』の主人公喜助の気持ちが 今ようやく理解できたような気がします。 私が中学のときに理解できなかった喜助の気持ちが このような局面で、読めたような気がするのです。 私は文学が好きです。 なぜなら、なんどもなんども読み考え そのときどう本を理解したかで、 自分自身の現在の姿を照らし出してくれるからです。 自分が変化することで、その本自体も私の中で変化し続けるのです。 読解に確固とした答えがないのは、 本が読者のものだからだと思います。 作者の意図を探るのはもちろん大切だけれども、 自分がどうその本を消化していくかが 真実、本に意味を齎すのではないのでしょうか。 これから卒論題材とした『ドグラ・マグラ』と『機械』と 向き合っていく上で、本を研究することの意味とは 何か、人間にとっての文学、芸術とは何か・・・ こういったことを問題視しながら、研究を進めていけたらと思います。 なんだかシリアスな終わり
2008,06,21, Sat 20:41
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