古事記が好きです。
いちばん始めの、国生みのところから、スサノオの旅立ち(?)までが特に好きです。 意外と子どもっぽい、というか人間らしい神様達。 なんて愛くるしいのかしら。ねぇ。 帰省したとき、ちょうど母が読んでいたのが、現代語訳の文庫版古事記で、 運命を感じずにはいられませんでした。なのでこっそり持ち帰ってきましたヾ(`ω`*) 何度も読み返したい一冊です。 しかし人物の名前が全く覚えられません 笑
2009,01,14, Wed 22:32
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タイトル通り、
新年明けましておめでとうございます。 2008年が始まったと思ったら、もう2009年。 本当に時が過ぎるのは早いですね。 昨年は、教育実習に院試、卒論提出と本当にやるべきことが 多くて、あっという間に過ぎてしまいました。 ただ、やるべきことが多いと、それだけ自分の成長も 強く感じられるもので、昨年の1月3日の私より 今の私のほうが格段に大人になったと実感しています。 誰も言ってくれないから、まあこの場で自分で言っているのですが (笑) さて話は変わりますが、いま私は更級日記にはまっています。 この前、古本屋で安く売っていたこの本を、ほんの気まぐれで 手にとってみたのですが、これが楽しい!! それまでが卒論や修士の足しになるかと、 ハイデッガーの『存在と時間』を読んでいたせいか 『更級日記』の流れるような文体が、本当に嬉しい やはり名文といわれるだけのものはありまして、 時を経ても失われないものが文学であり芸術であるのだなぁ なんて、しみじみと思ってしまいます。 ハイデッガーはまだ私の脳では理解できないのか、 序文ですでに混乱をきたしましたが、これも知識を得るためには 避けては通れない名著。 読む本がたくさんあるって幸せなことです。 いま塾の冬期講習で、生徒とセンター過去問を ひたすら解いていますが、センターに出る古文をじっくりと 読むのも意外に楽しいものです。 身近にある文学の素晴らしさに、意図せず出会えたときの 喜び。 嗚呼 今年も良い年になりそう
2009,01,03, Sat 11:36
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大学に向かう道は銀杏並木。
今は、落葉の真っ最中で黄色の葉が道を覆っている。 道にひらりと降りてくる銀杏の葉は、瞬間的に光の中で輝いて どんなクリスマスのイルミネーションよりも鮮やかだと私は思う。 毎年、毎年。落ち葉の季節が巡ってくるたび、綺麗だと思った瞬間の葉を文庫本に挿み込み、ドングリを見つけては、宝物を見つけたように拾ってしまう。綺麗だと感じた、その一瞬を残したいと思ってしまうのだ。ところがまあ、私は忘れっぽい。その日の夕日が沈む前に瞬間的な感動体験は頭から抜け落ち、衝動的に拾って挿んだ文庫本の中の葉は、後日ボロボロになって、さながら小さな虫の態でパラパラと本から落ち、多分にワタシを驚かせるというオチが待っている。これで何度悲鳴をあげたかしれない。 あ~、コレ絶対あとでボロボロになるよね。 と思いながらも、一昨日、私は思わず手を伸ばして金色の葉を本に挿み、大学内で真っ赤な葉を拾って文庫本に挿んだ。木の葉を拾う時にはいつも『万葉集』の額田王の歌を思い出す。 (冬ごもり) 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山をしみ 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ嘆く そこし恨めし 秋山そ我は (巻一・16) 「(冬ごもり)春がやってくると 鳴いていなかった 鳥も来て鳴きます 咲いていなかった花も咲いていますが 山が茂っているので 入って取りもせず 草が深いので 手に取ってもみませぬ 秋山の 木の葉を見ては 黄色く色づいたのは 手にとって賞でます 青いのはそのままにして嘆きます その点だけが残念です なんといっても秋山が良いと思いますわたしは」 (『新編日本古典文学全集 万葉集①』校注・訳―小島憲之・木下正俊・東野治之 小学館 ) この歌をはじめて読んだのは、高校生の頃。春も良い。秋もいい。けれど「そこし恨めし 秋山そ我は」と詠む強さが好きだった。確かに、木々の若葉を手にとることはないが、紅葉は拾う。当時から紅葉拾いのクセがあった私は、妙に納得したのだ。春も良い。秋も良い。だが、秋には手にとって愛でられるものがあるのだ、と。 拾う女、あやこ。どうせなら、どこかでステキな出会いでも拾って来たい、さむ~い大学三年生の冬。
2008,12,03, Wed 02:00
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最近サークルの友達に誘われてmixiというものに今更入ってみた私です。異空間過ぎて私には分からないことだらけです。そんなmixiの中で「キレるバトン」(お題の言葉を自分の口調に変換していく)とやらがありました。で、一応私も挑戦してみたんですけど……数分で嫌になった。何だかすごく疲れる。
怒るのって苦手です。 体力も気力も消費しちゃうのに、相手に真意が伝わらないで恨まれたり、もっとヒドイ場合は流されちゃったり。 わりに合わない面倒な作業だな、って思います。 でも、それでも相手に働きかけたいときってありますよね。 相手も自分も嫌な気分になっても、怒ること、怒られることがキッカケになって今までより深く付き合える。 そういうこともありますよね。 怒ってくれる人、怒ってあげられる人が自分の周りにいるのは、多分とても幸せなことだと思うのです。 だから、もっと他人にちゃんと怒ることの出来る人になりたいなぁ。 そんな話はともかく。私もたまには中古以外の文学を話題にしてみようと思います! 以前ともよちゃんが記事を書いてた中国思想演習という授業の話です。 ともよちゃんが書いてたように、この授業では『老子』を読んでいます。 今日は下篇徳経の後半にある章をいくつかやりました。 なかでも面白い指摘が出てたのが、79章。 深く結ばれた怨みごとを和解させたところで、〔当事者の間には〕必ずしこりが残るものである。どうしてすぐれたやり方といえようか。そこで聖人は、〔債権者として〕割符の左半分をしかと握っているが、しかし、それでいて相手(債務者)を責めることはしない〔自ら責めずとも、非があれば天が責めることを知っているから〕。諺にも「有徳の人は割符を管理するだけ、無徳の人はもっぱら取り立てる」という。天のやりかたにはえこひいきがなく、いつも善人の味方をする。 (楠山春樹『「老子」を読む』PHP文庫、2002) 最後の太字にした部分について「いつも善人の味方をする、っていうのはえこひいきとも取れる気がするんですけど…」と言った子がいて、それから皆で 「いや、善人の味方っていうのは悪い人は見逃さないっていうニュアンスであってー」 「でも善人か悪人かという判断は、その人の視点によって変わりますよね」 「そもそも『老子』で「善人」って表現するのが珍しい気がするんですが…」 と、善人って何だよ?という議論に。 あー何か質問してる人の言いたいことも発表者の言いたいことも分かる気がするんだけど、うーん。と一応考える私。 善人善人善…あれ? 前期に自分が発表した2章を見返してみた。 世の人はすべて、美しいとされるものを美しいと思い込んでいるが、〔立場が変われば〕それは醜いものである。善とされるものを善であると思い込んでいるが、〔立場が変われば〕それは悪なのである。…(後略) 「…あれ??2章でこう言ってたのに、79章で「善人」って言葉をぽろっと使っちゃうのは何だか変ですよね…」 何なんだこいつは…という話になるわけですが、ひとつの仮説として 79章に出てくる最後の一文は後世付け加えられたものではないか ということが考えられます。テキスト(前掲書)には『老子』という書物について次のような説明があります。 ところで近年の研究は、その内容から推して『老子』を一人一時の作ではないと見る。…(中略)…現行本の成立に至るまで約百五十年の歳月を閲したと考えられる『老子』には、当然のこととして旧新の思想が入り交じっている。特に戦国時代は思想界が活況を呈していた時期であって、『老子』の思想は他学派にも大きな影響を与えているが、逆に後出の文には他学派からする影響も見出される。 つまり、今私達が読んでいる『老子』はいろんな人の手が加わっているから、よくよく読んでみると 「え、前と言ってること違うよね?」 という訳の分からない部分が出てきてしまうらしいのです。むずかしー!誰だよ書き足したやつ!! 『老子』は正直難しいです。ただでさえ柔弱謙下とか無為とか言ってることも難しいのに…。 でも、前期から付き合ってきただけあって前より少しは親しめるようになってきた気がします。 それに一人じゃなく皆で読んでいるから気づくこともありますしね。今日の善人の所なんかも、私は(前期2章を担当していたくせに)「ふーん」と思っただけで全然ひっかからなかったので指摘してもらえてよかったです。 よし、この調子で後期も頑張ろう…。来週は目白祭期間で授業ないけど。
2008,10,08, Wed 23:23
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