頭の中が演習です。
ついに私にも演習恐怖がやってきました…。 みんな一生懸命、本当に一生懸命、演習に取り組んでいます。 そして一生懸命取り組んだものに、的確に、そして(きっと)愛を持ってつっこんでもらえる。 これぞ演習。 何週間か前の木曜日の演習でのひとコマ。 理由は分からないけれど、発表内容が明らかに少なくて、 でも本人がそれをよく分かっているようで、聞いているほうはちょっとはらはらしていたのだけど、 案の上、つっこまれてつっこまれてつっこまれて、 ダメ出しされてダメ出しされてダメ出しされて、、、。 「あぁ、やはり…。演習って付け焼刃じゃだめだよね。うぅ、怖くなってきたぞ。」 と私は思っていたところ、、、 最後の最後に、 「出来ると思うから言っているのよ。出来ないと思ったら言いません。」 と、教授の一言。 私でもはうぅっと衝撃を受けていたら、その子はうっすら泣いていました。 思うようなレジュメを仕上げられなかった自分が悔しかったんだと思う。 自分でもよく分かっていて、でも期限が来てしまって、、、 評価はそこで下されてしまうけれど、「今度こそ自分でも納得できる会心の発表を」と強く思わせる一言だなぁと思いました。 当たり前のことではあるのだけれど。 そして、どんな教職の授業よりも身にしみて、たった一言の言葉の魔法が分かりました。 また今週の木曜の演習のひとコマ。 授業の最後で教授が、さらりと一言。 「分からないことは恥ずかしいことじゃないのよ。分からないことをとばすことは恥ずかしいことだけど。」 …はうっ。 この演習では、疑問に体当たりして、自分の知り得る様々な角度から調べてみて、 でも結局結論が出ないとき、どっちが正しいのか分からないときは、 その調べた軌跡(レジュメ)をもとに、今度はその授業の中でみんなでいろんな辞書引いたりして進められていくことが多いです。 疑問点が出てきたときに、深みにはまりそうだからって避けたり飛ばしたりして体裁だけまとめてみても、 自分の調べる力はつかないで終わってしまうと思う。 深みにどんどんはまっていってこそ。 その深みに精神力やら体力やらを吸われて演習恐怖に陥ったとしても(^^;) 実際、ものすごく力になっていると私は思います。 例えば私の友達は植物についてつっこまれつっこまれ、 植物関係の辞書や他の文献の用例やらをひたすらあたっていると、 「あれ、今どんな話やってるんだったっけ」 という状況に陥りかけたようです。 一行が重い。 一文字が重い。 とにかく重いし深いのが、この演習の、校異の検討。 でもこれは絶対高校では体験し得ない授業ですよ! …しかし、私の目下の決戦日は来週の水曜です。 どこまで妥協しないで仕上げられるか。 もちろん自己満足ではだめで、ちゃんと求められていることが調べられていないといけないのですが。 見落としてる、二条の意図があったらどうしよう、、、 結構緊張してきたなぁ。。。
2006,11,18, Sat 21:20
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