高校のとき、先生はまことしやかに、グラフを見せていった。
「伸びなくても、続けていれば成績は爆発的に伸びるんだ。」 へん、なにが爆発的だ。そのグラフ、どっかの予備校の写してきたんでしょ。講釈ばっかたれてないで、なんか役に立つこと言いなさいよ。 私は先生を信用しない。 先生の仕事ってなに。 テストが終わったら面談やって、模試の結果とにらめっこ。ドサドサ課題出して、難しい問題ばかり解かせて。 砂を噛むような、その雰囲気が嫌だった。勉強って、もっとわくわくするものじゃなかったろうか。 私は校舎の窓から青々と茂った、一本の木を眺める。「メタセコイア」という名前であることを、私は入学したその日から知っている。 幼稚園だったか、メタセコイアが生きている化石だと知ったとき、私はいたく感動した。 化石で見つかったこの植物は、絶滅していると思われていた。それが、化石とほとんど変わらない姿で、中国に生えているのが発見されたのだ。 「すごい!!この木を最初に見つけた人は、どんなにびっくりしただろう!きれいなみどりをした細い葉を、恐竜が食べたかもしれないな。」 そう思うほどに、その葉は白亜紀に似つかわしいかたちをしていた。 夏の真っ青な空に、メタセコイアの緑は美しく映えている。 頭の中で私は、校舎をぐちゃぐちゃっと壊して、木が古代の原野に生えているところを想像した。もしくはダリかなにかの絵のように、赤土の上に一本だけ木が立っているところを想像してみた。 空だけが、今日と同じように真っ青である。 熱い風が、赤土のうえでゆらぐ。 胸がグラグラした。 そして私は、ようやく少し愉快になった。 理系への道を一緒に歩んでくれたのは、この木だ。 この木のような、誰も知らないことを私も発見したいと、思っていたのだ。 だが、私の肌に、ひったりと馴染んだのは、文学だった。 わたしらしさ。わたしがわたしであるゆえん。それを否定したり、偽ったりすることはない。自分が自分であることを、いとおしんでいいのだ。 受験で私が身をもって学んだことだ。 * * * * * さて、今日に至り、私はあのとき先生のいったことはあながち嘘じゃないんだな、と思うのである。・・・爆発的という表現は相変わらず、いかにも陳腐で、うそ臭いのではあるが。 きちんきちんと基礎知識を積み重ねていくと、知識同士がうまく連結したり、ヒントになったりして、パチっとひらめく瞬間がくる。勉強は、それまでがまんなのだ。本も、最初は面白くなくとも、忍耐強く読んでいると次第に引き込まれていったりする。それと同じことだ。がまんがいつか報われて、目の前がスーッとひらけるように、いろんなことがわかる瞬間がくる。 勉強だけじゃない。日々の生活も、そうだ。 失敗しても、泣いても、くじけそうでも、足のゆびにちからを込めて、くちびるを噛みしめて、向ってくる風にあらがっていく。 視界がひらけるまで耐えた者が、その先へ行けるのだと、信じている。 年度が変われば、わたしの生活も変わり、大変なことはいろいろと覚悟している。 でも、迷うたびに、苦しくなるたびに、わたしは「あのとき」を、私の選んだ道を、思い出すだろう。 そうすると、なんだってがんばれるような気持ちになるのだ。 今日は退寮日。ここから先も、やっていけるように。 最後に、寮の桜が見れてよかった。
2008,03,21, Fri 11:00
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